キャリア

【生成AI全盛期】なぜ、私はビジネス書を読まなくなったのか?

行動が重視されるこの時代に、なぜ私は「読むこと」を重ねるのか。

世の中には「すぐ動け」と語る言葉があふれている。
迷うな、止まるな、考えすぎるな。

だからかもしれない。
書店の平積みにある本の多くは「明日から使える○○」や「成功する思考術」ばかりだ。
確かに、それらは読みやすくて、前向きな気持ちになれる。
でも、ふとページを閉じたとき、私は自分に問いかけたくなる。

「これは、本当に私のための言葉だったんだろうか?」

何かに納得しないまま走り出すとき、
その足音はいつも、少しだけ心とズレて響く。
「やってみたものの、何かが違った」と
後になって自分を見失う感覚が残る。

だから私は、評論を読む。
すぐには役に立たないかもしれない。
でも、問いの立て方や思考の骨組みのようなものが
静かに、確かに、自分の中に積み上がっていく。

ビジネス書を否定したいわけじゃない。
むしろ、すぐ動ける人がいることを、私は少しうらやましく思う。
けれど私は、動き出す前に自分の「なぜ」を探してしまう。
行動の背景を、自分の言葉で持っていたい。

このブログは、そんな読書のための場所です。
すぐに役立つ情報は、たぶん少ない。
けれど、読み終えたとき、
あなたの中に“問い”がひとつ、
静かに灯っていたなら、それはきっと大切な読書になる。

私は、納得してから動きたい。
そんな思いを共有する人へ、言葉を残していきます。

「行動信仰」の正体:なぜ“動け”と言われるのか

「まず動け」
「完璧を目指すな、60点でいいからとにかく始めろ」
「失敗から学べ、動かないことがいちばんの損だ」

──そんな言葉を、私たちはもう何度聞いてきたんだろう。

どれも間違ってはいない。
現実は、考えているだけでは変わらない。
世の中の多くの成功者が、口を揃えて“行動の価値”を説いているのも事実だ。

でも、心のどこかで引っかかってしまう。
「本当にそうだろうか?」と。

動ける人は強い。目立つ。
SNSで「やってみた」報告がシェアされ、実行力のある人が評価される。
気づけば、「とにかくやってみること」が“善”として流通している。

けれど──その流れの中に、
「まだ動けない人」や「動く前に立ち止まる人」の居場所は、あるだろうか。

行動を肯定する言葉が、
時に“行動しないこと”を否定する刃になっていることに、どれだけの人が気づいているだろう。

私たちはいま、「考える前に動け」という時代の空気の中にいる。
そしてそれは、ビジネス書のあり方にも如実に表れている。

評論とビジネス書のあいだで:読書スタイルから見える“人の深層”

書店に並ぶビジネス書のタイトルは、いつも「結果」に直結している。

「年収が上がる」「伝わる話し方」「すぐにできる思考術」──
そこにあるのは、“使える知識”であり、“動くための道具”だ。

読みやすく、すぐに試せる。
読み終えたあとには、小さな達成感と前向きな気持ちが手に入る。

でも私は、何度もそういう本を閉じたあとで、こう思ってきた。
「これは本当に“私の”言葉だったのか?」

うまく話せるようになる方法や、相手に伝わるコツ。
それらを知ることに意味はある。けれど、自分の中に確かな問いや実感がないまま“やり方”だけを覚えても、
どこか空虚だった。

そんなとき、私は評論を読んだ。
思想書や社会批評、小説のような評論的エッセイ。
正直、すぐには意味がわからないこともある。
けれど、何かが心の奥にひっかかる。
読んで、寝かせて、また思い返して──そのたびに、ゆっくりと考えが育っていく感覚があった。

すぐ動くための言葉ではない。
むしろ、“まだ動かないこと”に許可をくれるような言葉。

ビジネス書は、世界をどう動かすかを教えてくれる。
評論は、自分がなぜ動きたいのかを問うてくる。

どちらが正しいわけでもない。
ただ、人は自分の深層にある「納得」のスタイルによって、読む本のタイプを無意識に選んでいる

他者の評価軸で進みたい人は、ビジネス書に惹かれる。
自分の言葉を持ちたい人は、評論を手に取る。

そして多くの人は、そのどちらにも足をかけながら、揺れている。

私自身の話:動いてはみた、けれど…

正直に言えば、私も「動けば変わる」と信じていた。

ビジネス書を手に取り、紹介されたフレームワークを試してみた。
朝活を始めて、ルーティンを整えて、自分を律する言葉を毎日書き出した。
最初は、変わった気がした。思考が整理され、自信もついた。
「自分、できてるかも」って、少しだけ誇らしい気持ちになった。

でも、あるときふと気づく。

それは“できた気がしただけ”だった。

何かを「やっている」ことで自分の不安をごまかしていた。
行動することでしか、自分の価値を証明できないような、そんな息苦しさがあった。

──私は、誰かの答えを追っていただけだった。

本の中の言葉を「使う」ことはできても、
それを通じて「自分の言葉」にたどり着いた感覚がなかった。

動いたのに、どこにもたどり着けていない。
むしろ、自分の輪郭が少しずつぼやけていくような不安。

そんな違和感をきっかけに、私はまた本の読み方を変えた。

結果を急がず、問いの根っこに降りていくような、評論や哲学書を読むようになった。

すぐには行動に変わらない言葉たち。
でも、その曖昧さのなかに、自分の実感が息づいているような気がした。

問い直し:動けない時間に意味はあるのか?

動けなかった時期がある。
何をしたらいいのかわからず、ただ本を読んでいた。
読んでもすぐには変われないし、どこかで「こんな時間に意味があるのか?」と焦っていた。

周りはどんどん進んでいく。
SNSには、資格を取った、昇進した、転職した──そんな投稿が並ぶ。

私は、止まっていた。

でも今、あのときの自分にひとつ言えるとしたら、こう伝えたい。

「止まっていたんじゃない。考えていただけだよ」と。

考える時間は、表からは見えない。
でも、内側では確かに耕されていた。
言葉にならない違和感を持ち続け、何度も本を読んで、
そのたびに“これじゃない”“でもどこか近い”を繰り返していた。

そして、ようやく自分の中にある問いのかたちが見えてきたとき、
それは無理やり動いたときよりも、ずっと深く、自分を納得させてくれた。

行動が遅くても、言葉が曖昧でも、
内側の納得が育っていれば、必ずどこかで自然と動き出せる瞬間が来る。

その静かな確信が、今の私を支えている。

読者へのバトン:あなたはどんな時に、深く納得しますか?

私たちは、いつからか“動けること”に価値を見出すようになった。
「すぐやる人」「行動できる人」こそが前進していると信じてきた。

けれど、本当にそうだろうか。
私たちは、行動する前の時間に、何もしていないわけじゃなかった。
動けなかった時間には、言葉にならないモヤモヤがあって、問いがあって、まだ輪郭の見えない“自分”が、静かに揺れていた。

もしかしたらその揺れこそが、生きる上でいちばん確かなものだったのかもしれない。

私たちには、「納得してから動きたい」気持ちがある。
それは決して、怠けでも弱さでもなく、
自分の言葉で世界と向き合いたいという、まっすぐな願いだ。

すぐには答えが出なくても、
すぐには形にならなくても、
読むことは、私たちが「考える自分でいよう」とする行為そのものだ。

このブログは、そういう時間のためにあります。

焦らなくていい。動けなくても、考えているなら、それでいい。
本を読みながら、あなたがあなたの言葉に近づいていく時間を、私は信じています。

では、問いを最後にもう一度。

あなたはどんな時に、深く納得しますか?

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よるさんぽ
大手IT企業で働く会社員が、10年間でセミリタイアを目指すためにしていること。IT業界でキャリアアップをするためにしていることを発信しています!